香りの効用
日曜日の午後。
彼は彼女と街を歩く。
さっき見たばかりの映画のヒロインのように
あんな恋をしてみたいという彼女に
映画みたいな恋は長くは続かないさと、
そう答えて彼は軽く彼女の手を握る。
彼女は納得したようにそうね、と答える。
乾いた風が彼女の髪をなでるように揺らし、通り過ぎていく。
彼女の香り
いや、別れた恋人の香り。
彼は思わず振りかえる。
昔の恋人の香りを連れたまま、彼女の髪を揺らし去っていった風。
その風が飛ばしたいくつかの乾いた落ち葉と同じように流れていく平凡な風景。
見知らぬ人々の後姿。
どこにも彼女の姿を見つけられないまま、 香りは彼から遠ざかっていく。
香りは去り、思い出が残る。
そして彼はかつての恋人を想う。
今、彼の手には彼女の手が重ねられている。
この手は彼女のぬくもりに触れながら遠い過去を感じている。
かつての恋人との思い出が、映画のスクリーンに映し出されたヒロインのように脚光を浴びて彼の脳裏に鮮やかにに蘇り、膨らんでいく。
やがて強く握りしめられた左の中指の関節が彼の感覚を押し留めるように現実に呼び戻す。
どうしたの。
いや、映画みたいな恋もやっぱりいいよな。
彼は彼女の指を強く握り返してから離し、風で流れた彼女の髪をその手で優しくとかす。
今夜は、calera Millsでも飲まないか。
あのワインは香りが最高なんだ。
人の心に所有のない香りは存在しえない。
香りは、それ自体が独立して存在することがない。
バラの花の濃厚で挑戦的な毒々しい香り。
季節、たとえば春の雪解け水が残る乾ききらない土の放つ香り。
熟れきったメロンの、腐敗の一歩手前の香り。
故郷の、思わず吸い込んだ空気をを喉の奥で音をたてて飲み込んでしまいたくなるほど懐かしい香り。
母の、醤油が染み込んで茶色く変色した長さのふぞろいな菜箸の香り。
彼の遠ざかる香り。
擦り寄ってくる彼女の香り。
香りにはすべて対象がある。
対象が消えてからもほのかに残る
残り香のような思い出の香り
今度恋する時はそんな香りを身につけて。
そしてその香りにどんな形容詞をつけるのか、
それは、あなた次第。