待つということ
目の前の女は泣いている。
目の周りと鼻の頭を真っ赤にして泣いている。
おいおい、いいかげんにしてくれよ。なにも、こんなところで泣くことはないだろう。常識知らずはいったいどっちだよ。
女は泣き止まない。
時々、その泣きはらした目を伏し目がちに、かつ挑戦的に俺がその目を見るまで自らの感情を投げ続ける。
その表情には決して悪意はない。しかしその善意ある泣き顔で俺を悪者にする。
畜生。なんでこんなところに俺はいなきゃならないんだ。これほど時間の使い方として無駄なものはないだろう。もう、どうでもいい。ここから俺を解放してくれ。
「あなたが心配だったから、ずっと待ってたのに」
なるほど、待つのは自由だ。しかし、それをなぜ俺が責められなければいけないんだ。
待ったのに来なかったことか?
そもそも、おまえが待ってることなんて俺は知らないじゃないか。
「待つ」という行為は対象がありながら、その対象との接点が全くない行為である。しかし面倒なことに、そのことに待つ者は気づかないことが多々ある。
「待つ」行為に静止が加わってはいけない。それは受動でしかありえない。
「待つ」は静止でなく行動である。
「待つ」という行為をするのである。 すると、それがどれほど楽しみなものか、そして場合によってはくだらない退屈なものであるかが分かる。
そして「待つ」ことに対象を求めすぎないことだ。自分が「待ち」、自分のために「待つ」のである。
「待ちの楽しみ」とは、言葉どおり待つ行為そのものを楽しむことを言う。
けれど、長く待ってはいけない。
待つことが目的となってしまうから。
そして、また「待たれるうちが花」である。
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